自己紹介:40代で会社員からフリーランスに転身したエンジニアです

まずは自己紹介兼事例紹介

フリーランスエンジニアへの転身を考えている40代の皆さん、

こんにちは。
私が周囲の心配をよそに、40代にして会社員システムエンジニアから、
フリーランスへの転身を果たした地方在住エンジニアのTatzです。

このブログ、
地方在住で40代からフリーランスに転身したエンジニアのブログ」を開始するにあたり、まずはブログ運営者である私の自己紹介から始めさせていただきます。

看板に偽りがあっては信用されませんからね。

それでは、私が大学卒業からフリーランスに至るまでの簡単な経歴のご紹介です。

大学文系卒のくせにシステム開発の会社に就職

私は北海道のある私立大学の文系出身です。

人文学部で、いわゆる英文科に近い学科を専攻していました。
正直言って、高校では進学校に進むものの、レベルの高さについていけず、
落ちこぼれてしまい、一浪の末何とか入れる大学に入った、というところです。

子供の頃は色々な夢を描いたものでしたが、しだいに夢は薄れ、大学に入学したころには何をしたいのか、どんな仕事がしたいのかも分からない状態でした。
あっという間に就職活動の時期を迎えるのですが、会社回りをしたくない理由から公務員試験を選択しました。

今思えば、大した志望動機もなかったんですよね。
結果は全試験全滅。。。
公務員試験が終わる頃には、就職活動も終盤を迎えており、非常に厳しい状況でした。

親からは「就職浪人は認めない」という無言のプレッシャーもあり、何とか就職を目指し活動を始めたものの、いかんせん求人がもう残っていない。
しかも当時は、就職氷河期と言われていた時期。余計に厳しさが増します。

ただ、そんな時に奇跡のような電話が舞い込みます。
産業ガス大手のグループ企業から会社説明会の案内の電話。
今思えば、なぜ一方的にあんな電話が来たのか不思議でなりません。
その時は藁をもすがる思いで、会社説明会に参加しました。

説明会の会場に来て初めて知りましたが、その会社はグループ企業のコンピューターシステムの開発を行う会社とのこと。
文系なので、情報科学とかその辺の知識はゼロでしたが、中学校の頃はファミコンのゲームソフトのプログラマーになりたいという淡い夢があったので、ちょっと興味が湧いてきました。

で、その後適性検査と面接に挑み、何故か内定ゲット!
今と違って、当時は個人で開発スキルを磨くことが難しい時代です。
採用側も、とりあえず適性検査の上位者であれば後は入社後に教育すればいいという感じだったようです。

当時は、「これで俺もプログラマーの仲間入りかあ。」なんて思ったりしていましたが、業界のことなんて何も知りません。
開発スキルを積むのに向いていない会社とも知らずに。

転勤により人生設計が大きく狂いだす

とりあえず私のエンジニア人生はこうしてスタートしたわけですが、入社して最初に学んだ言語が何と「COBOL」。。。

でも当時は「すげー俺プログラミングしてるわ」って感動してましたよ。
まあ、実際にやっていた事は人事システムの運用保守。
人事担当者からの様々な問合せや帳票作成依頼への対応、給与明細の出力と封入封緘作業、社会保険算定システムの更新作業など、今思い出せば面白くない作業ばかり。。。

今残っているのは、「俺COBOLやってましたよw」という思い出だけです。

加えて、新入社員の私に当時ついてくれた先輩が、教える気ゼロの「のほほん社員」でしてね。。。ほんとに何も教えてくれない。
とりあえず簡単な作業指示だけはしてくれるのですが、なにせその先輩、自分の仕事ですら計画的に進めることができない。

無理なスケジュールを押し付けられても「分かりました」と口では言って、後になって「終わっていません」と平気でいう体たらくぶり。
その先輩社員のおかげ?で、人事システムの大トラブルに巻き込まれてしまい、2日間徹夜で給与明細のバグ修正をする羽目に。

やがてトラブルも収束し、私がその先輩に代わってやれる事も増えてきたので、とにかくユーザーからの信頼回復に努めましたよ。
ユーザーサポートの重要性が身にしみてわかりました。

やがて、グループ企業も汎用機からクライアントサーバー型のシステムへの移行が始まります。その中でOracleデータベースを使ったアプリケーションの開発に携わることができました。当時使用していた言語はPL/SQL。開発ツールはOracle Developper
これまた現在ではマイナーな部類の言語と開発ツールですな。

それでも、設計から実装、テストというシステム開発の流れを一通り経験できたのは無駄ではなかったと思います。結局、上記の開発とその後の保守開発で5~6年経験したと思います。

そのころには、結婚し子供も生まれ、仕事も忙しいながらも充実していたと思います。
ただ、次第にプログラミングから離れ、設計とパートナー社員の管理が増えていきました。知らないうちに、技術を身に着ける機会がどんどん減っていったのです。

そして、さらに状況が一変します。

東京支社への転勤。。。

しかもその転勤話、
同僚が転勤を断ったせいで私にお鉢が回ってきたのです。
今でも思い出すと腹が立つ。

当時の私には、その転勤を断る勇気がなく、なくなく転勤を承諾。
一度も北海道を離れたことがないのに、家族で埼玉に引っ越しました。
(職場は神谷町でしたが、住まいは家賃の安い埼玉にしました)

当時の会社には、社員の転勤に計画性がなく、一度転勤したら次いつ札幌に戻れるか分からないというのが普通でした。普通じゃないけどね。
慣れない通勤と、変人じみた上司によるストレス、加えてシステム開発に一切関われない事への不満など、ネガティブな要素ばかり積みあがっていきます。

最終的には不眠が続き、産業医から業務へのストップがかかりました。
一カ月間残業せず定時で帰りなさいとのこと。
産業医の判断は正しかったと思いますが、同時に「この会社にいる意味あるのかな」と真剣に考えるようになりました。黙っていても札幌に帰れないし。。。

1回目の転職で札幌への帰還を果たすも更なる試練が

で、ここから札幌へ帰るための転職活動が始まります。
もちろん、仕事の内容にも不満はありましたが、とにかく札幌に戻れないことには通勤地獄から解放されませんので、どちらかというと札幌帰還を第一目標とした転職です。

最終成績は「20戦19敗」。。。
ほとんどが書類選考で落ちていました。当時の年齢が34歳。
「エンジニア35歳定年説」という有り難くない言葉が流行りだした頃でもあり、加えて経歴書に書けるようなスキルがあまり無いことも転職活動の足かせになりました。

しかし、たった1勝の転職で、めでたく札幌に帰還することができたのです!
しかも、某精密機器メーカーのグループ企業で、システム開発の会社です。
前職ではなかった、自社製品の開発に携わることが出来るのでは?
色々な期待をもって2社目に入社です。

さて2社目。
本社は東京で、札幌の支社に所属することとなりましたが、何と最初の1か月ほぼ放置。。。
しかもプロパーは全体の1/3で、あとはパートナー社員という人員構成。

何だ?札幌には仕事無いんかい?
と疑いたくなるような仕打ち。先行き不安。。。
ですが、1か月が経つと、ようやくプロジェクトにアサインされることに。
メーカーの主力製品の試験用アプリケーションの開発を任されました。

既に過去の製品用のアプリケーションをベースに開発するので、さほど難易度は高くはありませんでしたが、久々に設計と実装を経験できたのは嬉しかったです。
その後は、製品に搭載するファームウェアの検証業務も経験しましたが、1年が経とうとしていた時、東京の本部から「札幌をつぶす可能性がある」というショッキングな連絡が!

どうやら札幌支社は立ち上げ当初から赤字体質だったようで。。。
元々は開発センターとしての役割を担うべくして立ち上げた拠点だったはずが、実際には守秘性の高いプロジェクトが多く、東京から遠隔地である札幌には仕事を出しにくいとのこと。

おそらく守秘性の問題以前に、外部に仕事を切りだせるだけのスキルが社内になかったのでしょう。それと、思っていたほど札幌のコストメリットが出せなかったのも原因だったようです。

札幌支社をつぶすまいと、もはや仕事を選んでいる余裕もありませんでした。
外国の拠点ユーザー向けのERPソフト保守業務、東京本社で手が回らなくなったシステムの保守業務、アカウント登録業務など、正直モチベーションが上がるような仕事ではありません。

しかも、プロパーは現場の仕事をすることはほとんどなく、やることと言えば東京本社からの問合せ窓口や、パートナー社員の管理、日程管理など、ほぼマネジメント中心です。
システムの設計、プログラミングなんてやる機会はほとんど失われていました。
こんな状態でスキルが身に着くわけもありません。

しだいに残業も禁止となり、仕事は山ほどあるのに残業できない状況。。。
頻繫に東京から転勤してくる本社社員。しだいに札幌社員の形見は狭くなる一方でした。
そして、私自身も心身を病んでしまい、2度の休職を経験することになりました。

退職を決意…そしてフリーランスエンジニアという働き方との出会い

結局、1社目も2社目も、自身の体調不良がきっかけとなり、転職を決意することになりました。しかし、すでに年齢が40歳を超えていました。本心では「この年齢で転職は無理かな。。。」と弱気になることも。

しかし、復職後社内で腫れ物扱いされる状況に、これ以上耐えることは限界でした。
それに、エンジニアとしてこんな中途半端な状態で残りの会社員生活を送るなんて、「負け」を認めたようで到底受け入れられませんでした。

ただ現実は甘くはありません。
やはり40歳を超えて、直近では管理業務しかしていない状況で「開発をやりたい」と言っても、なかなか書類選考を通ることもままなりません。

そんな中、転職サイトからの求人紹介で、とある会社が目に留まりました。
その会社では、社員を募集していないのです。???

社員ではなく、フリーランスのエンジニアの登録を募集していたのです!
その時は、フリーランスエンジニアのイメージが全然湧きませんでした。

要は、その会社では、フリーランスエンジニアの代わりに営業活動を行い、エンジニアを募集している会社に対しフリーランスエンジニアを紹介するというビジネスモデルです。
しかも、その会社とフリーランスエンジニアとで「共同受注」を行うのです。
派遣やSESとは一線を画す仕組みです。

当然、社員ではないので、取引先から得た報酬はほぼ自分のものになります。
共同受注した会社に10数パーセントの手数料を支払った残りが自分の報酬となります。

自分はこれまで「会社」という組織に翻弄され続けて疲れ切ったのではないか?
転職先を会社にこだわる必要はあるのか?
フリーランスとして生きる道があるならチャレンジしてみるべきでは?

すぐに「その会社」とコンタクトを取り、説明会に参加し、フリーランスエンジニアとして働くことのメリット、デメリットを知りました。同時に、「その会社」がフリーランスエンジニアにとってどんなメリットを受けられるのかも知ることができました。

もうここで、私の腹は決まりました。
「良い案件がありましたらすぐに行きますのでご連絡お待ちしています。」
そう伝えて、果報が来るのをひたすら待ちました。

2017年9月、
ついに私は2社目の会社を退職し、税務署に個人事業主の開業届を出し、晴れてフリーランスエンジニアとなりました。会社の最終出社日の次の週から、フリーランスエンジニアとして客先での常駐業務が始まりました!

6月に案件の紹介を受けてから、常駐先で必要となるスキルを必死に勉強しましたが、いざ現場に入ると自分のスキルの無さを痛感させられました。甘くはありません。
しかし、フリーランスとなったからには、もう会社は助けてくれません。
頼れるのは自分だけ。思えばこの状況に身を置いたことで、覚悟が決まったのだと思います。

で、この記事を書いているのが2018年10月。
フリーランスとなって1年が経過しました。少しずつですが開発スキルが身についてきた実感はあります。元々はパートナー社員を受け入れる側の人間だったので、現在常駐先の社員の方たちがどんな事を求めているのかを先読みするのは得意かもしれません。

自分の経験って、意外な形で役にたつのだなと、改めて実感しています。

自分の経験を多くの人達に発信したい

こうして、まだまだ未熟ではあるものの、40歳を過ぎてフリーランスエンジニアへの転身を果たした私が、何か本業以外で人の役に立てることはないだろうか?

最近よくこんな事を考える機会が多くなりました。
私もこれまで仕事で苦い経験をしてきたこともあり、おなじような境遇で自分の将来を悲観している人がいるのであれば、少しでもその人たちの背中を押してあげられるような、そんな事を実現するために、このブログを立ち上げました。

エンジニアとしてのスキルはもちろん、個人事業主として必要な知識や経験をこのブログを通じて共有していけたらと思っています。
私自身もまだまだ成長途上ですが、ひとつよろしくお願いいたします。

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